このブログ、このシリーズについて
このブログは、私自身が実際に経験した出来事を振り返る回想録です。物語は、約50年前、16歳だった私がアメリカへ留学した日から始まります。一部は当時の記憶をもとに記載していますが、できる限り事実に基づいて綴っています。この留学をはじめとする数々の経験は、その後の私の人生を大きく変えました。
なぜエヌ・エイ・アイ株式会社を創業したのか。なぜ論文サポート、多言語翻訳、動画でOJT介護といった事業へ取り組むようになったのか。そして、なぜ社是を「とことんキッチリおつきあい」と定めたのか。このシリーズでは、一人の創業経営者として、その原点や想いを、できるだけありのままにお伝えしたいと思っています。また、このシリーズにはもう一つ目的があります。生成AIの急速な進化によって、大きな転換期を迎えている2026年という時代に、私たちはこれからお客様へどのような価値を提供していくべきなのか。自分自身の歩みを振り返りながら、その答えを探し、次の世代へ経験をつないでいきたい。そんな思いで、このブログを書き始めました。(エヌ・エイ・アイ株式会社 代表取締役 伊藤秀司)
第11話 アメリカにも慣れ、日本が恋しくなり始めた頃
1975年の秋。
フットボールシーズンが終わり、バスケットボール部も一週間でクビになった私は(笑)、アメリカでの生活にもすっかり慣れてきていました。
気がつけば、渡米してから数か月。
不思議なことに、日本語を話す機会がまったくない生活にも違和感を覚えなくなっていました。
もっとも、今思い返すと、私が話していた英語は決して流暢ではありません。
使っていたのは、ごく限られた単語と表現ばかり。
帰国後、大学受験で有名だった『試験に出る英単語』や『マメタン』を開いてみると、「こんな単語、知らない」というものばかりでした。
つまり私は、必要最小限の単語だけを駆使して、何とか生活していたのです。
それでも、不思議と日常生活には困りませんでした。
「語学は単語数だけではない。」
そんなことを、身をもって学び始めた頃でもありました。
Birr家の本当の家族になっていく
もちろん、楽しいことばかりではありません。
今でも私は未熟者ですが、16歳だった当時は、今以上に未熟でした。
Birr家でも、兄弟姉妹と小さな衝突を繰り返しました。
トイレを使う順番。
テレビを見る時間。
友達との付き合い方。
今思えば、本当に些細なことばかりです。
でも、それは家族だからこそ起こることでもありました。
私は「ホームステイのお客様」ではなく、少しずつBirr家の一員として扱われるようになっていたのかもしれません。
今になって思えば、それはとてもありがたいことでした。
少し羽目を外し始めた16歳
一方で、私はすっかりアメリカの高校生活にも染まり始めていました。
週末になると、友達から必ずと言っていいほど電話がかかってきます。
「Shuji、今夜パーティーがあるぞ。」
誰かが車で迎えに来てくれます。
そして夜遅くまで友達と語り合い、笑い合う。
そんな週末が続いていました。
今だから正直に書きます。
当時17歳だった私は、ウィスコンシン州の法律では当然ながら飲酒は禁止でした。
それにもかかわらず、毎週のようにビールを飲み、時には飲み過ぎてしまうこともありました。
今振り返ると、Birr家のお父さん、お母さんには本当に心配を掛けたと思います。
どうやって帰宅したのか、あまり記憶に残っていない夜もありました。
あの頃の自分には、少し反省しています。
初めてのアメリカの遊園地
そんな中、Birr家のご両親が何度か遠出に連れて行ってくださいました。
その中でも忘れられないのが、ミルウォーキー近郊にあった「Great America」という巨大な遊園地です。
今ならディズニーランドやユニバーサル・スタジオのようなテーマパークが当たり前ですが、当時の私にとっては何もかもが初めてでした。
特に驚いたのは、レストランそのものがショーになっていたことです。
カントリーミュージックの生演奏を聴きながら食事をする。
子ども向けのショーが始まる。
日本では見たことのないエンターテインメントでした。
「これがアメリカなんだ。」
そんな感動を覚えたことを、今でも鮮明に覚えています。
久しぶりに聞いた日本語
その旅行の途中、ミルウォーキー郊外の大きなショッピングモールへ立ち寄りました。
そこで偶然、一軒の日本の雑貨店を見つけます。
店主は関西出身の日本人の方でした。
アメリカへ来てから初めて耳にする日本語。
「どこから来られたんですか?」
そんな何気ない会話が、とても嬉しかったことを覚えています。
数か月ぶりに話す母国語。
たった数分の会話でしたが、心の奥がほっとした感覚は、今でも忘れられません。
初めて見た大都市
その時、車はミルウォーキーのダウンタウンも走りました。
高層ビルが立ち並ぶ街並み。
16歳だった私には、それだけで衝撃でした。
もちろん、後に生活することになるニューヨークの摩天楼と比べれば、規模はまったく違います。
しかし、1975年当時の私には十分すぎるほど大都会でした。
東京にも高層ビルはありました。
私の記憶では、当時は世界貿易センタービルや完成したばかりの新宿三井ビルが話題になっていた頃です。
それでも、街全体が高層ビルで埋め尽くされているアメリカの景色は、日本とはまったく別世界でした。
改めて、この国のスケールの大きさを感じた瞬間でした。
それでも恋しかった日本
そんな毎日を送っていても、一つだけ恋しくなるものがありました。
日本の食べ物です。
外食をすれば、ハンバーガー。
ステーキ。
サンドイッチ。
どこへ行っても、そんなメニューばかり。
もちろん美味しいのですが、毎日続くとさすがに飽きてきます。
「味噌汁が飲みたい。」
「焼き魚が食べたい。」
「漬物が食べたい。」
そんなことを考える日が増えてきました。
今では世界中どこへ行っても日本食レストランがあります。
しかし、1975年当時のウィスコンシン州では、日本食はほとんど手に入りませんでした。
日本という国を初めて遠く感じた、そんな秋でもありました。
(第12話へ続く)
執筆者
伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社(事業内容:①科学論文サポートサービス ②NAIway翻訳サービス ③品質QAS動画まるごとローカライズ ④動画でOJT介護) 代表取締役
1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。
1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。

