このブログ、このシリーズについて
このブログは、私自身が実際に経験した出来事を振り返る回想録です。物語は、約50年前、16歳だった私がアメリカへ留学した日から始まります。一部は当時の記憶をもとに記載していますが、できる限り事実に基づいて綴っています。この留学をはじめとする数々の経験は、その後の私の人生を大きく変えました。
なぜエヌ・エイ・アイ株式会社を創業したのか。なぜ論文サポート、多言語翻訳、動画でOJT介護といった事業へ取り組むようになったのか。そして、なぜ社是を「とことんキッチリおつきあい」と定めたのか。このシリーズでは、一人の創業経営者として、その原点や想いを、できるだけありのままにお伝えしたいと思っています。また、このシリーズにはもう一つ目的があります。生成AIの急速な進化によって、大きな転換期を迎えている2026年という時代に、私たちはこれからお客様へどのような価値を提供していくべきなのか。自分自身の歩みを振り返りながら、その答えを探し、次の世代へ経験をつないでいきたい。そんな思いで、このブログを書き始めました。(エヌ・エイ・アイ株式会社 代表取締役 伊藤秀司)
第12話 凍える夜道と熱狂のバスケットボール。そして、初めての恋へ
秋が深まるにつれ、ウィスコンシンの寒さは一気に厳しくなっていきました。
私が暮らしていたTwo Riversは、ミシガン湖のほとりにある町です。
夏の間は緑に囲まれ、本当に美しい場所でしたが、冬が近づくと景色は一変します。
デイライト・セービング・タイム、いわゆるサマータイムが終わると、日が暮れるのも一気に早くなります。
夕方には、もう真っ暗。
そんな寒い季節に、16歳の私は、今考えると実に浅はかなことを思いつきました。
「そうだ、アメリカで運転免許を取ろう」
当時のウィスコンシン州では、16歳から自動車を運転することができました。
それを知った私は、
「だったら、俺も免許を取れるじゃないか。」
と思ったのです。
しかも、高校生の私はさらに都合よく考えました。
「アメリカで免許を取って日本へ持って帰れば、日本の自動車学校へ通わなくても済むんじゃないか。」
今思えば、何とも高校生らしい浅知恵です(笑)。
そこで確か11月頃から、Two Riversの公立高校で行われていたDriving Courseに通い始めました。
週に一回くらいだったと思います。
学校が終わると、いつものスクールバスを途中で降り、公立高校へ向かいます。
そこで1時間半ほど、運転に関する講習を受けました。
1975年にあった「運転シミュレーター」
驚いたのは、その設備でした。
学校の中に、今でいうドライビングシミュレーターのような巨大な機械が置かれていたのです。
前方に道路の映像が映り、ハンドルやアクセル、ブレーキを操作しながら運転の練習をする。
1975年の話です。
日本から来た16歳の高校生には、それだけで未来の世界を見ているようでした。
「アメリカって、こんなところまで進んでいるのか。」
当時の私は、何か新しいものを見るたびに、
「これじゃあ、この国と戦争をしても勝てなかったわけだ。」
そんなことを考えていました。
父が戦争を経験した世代だったことも、そんな考えにつながっていたのかもしれません。
凍えそうな夜道で見上げた星空
しかし、一番大変だったのは講習ではありません。
帰り道です。
講習が終わる頃には、外はすっかり真っ暗。
家まで送ってくれる人がいない日は、そこから歩いて帰りました。
確か2マイル弱、3キロ以上はあったと思います。
ウィスコンシンの冬の夜です。
寒い。
とにかく寒い。
「なんで俺はこんなことをやっているんだろう。」
そんなことを考えながら、暗い道を一人で歩きました。
ところが、その帰り道には、一つだけ楽しみがありました。
星空です。
街灯の少ない田舎町ですから、夜空を見上げると、信じられないほどたくさんの星が見えます。
凍えそうになりながら歩いているのに、
「なんて星がきれいなんだろう。」
何度も立ち止まって、空を見上げました。
今でも、冬のTwo Riversを思い出すと、最初に浮かんでくるのは、あの寒さと満天の星です。
そして、免許取得計画はあえなく挫折
そんな生活を2か月近く続けたでしょうか。
ところが最後になって、教官から思いもよらない話をされました。
当初は、
「免許を取れば、日本へ帰っても使えるんじゃないか。」
というような話だったのですが、結局、私の年齢では日本の免許への切り替えはできない、ということになりました。
「えっ、今まで通ったのは何だったの?」
と思いましたが、どうしようもありません。
結局、私の「アメリカで免許を取って、日本の自動車学校を省略する」という壮大な計画は、あっけなく終了しました(笑)。
もっとも、今振り返れば、免許そのものよりも、あの寒い夜道を歩いたことや、1975年のアメリカの高校にあった運転教育の設備を体験できたことのほうが、ずっと貴重な思い出になっています。
私をクビにしたバスケットボールチームが州大会へ
そして冬になると、Roncalli High Schoolではバスケットボールが主役になります。
以前にも書きましたが、私はこのバスケットボールチームに挑戦し、わずか一週間ほどでクビになりました(笑)。
しかし、自分でやるのはダメでも、見るのは大好きでした。
しかも、その年のRoncalliは強かった。
本当に強かった。
カンファレンスでも優勝を争い、ついには州大会へ進むほどのチームになりました。
残り2秒。センターライン付近から
当時の高校バスケットボールには、まだスリーポイントシュートがありません。
どれだけ遠くからシュートを決めても2点です。
そしてRoncalliの試合は、なぜか接戦が多かった。
3点差。
2点差。
時には残り数秒で1点差。
そんな試合が何度もありました。
今でも鮮明に覚えているのが、残りわずか数秒。
負けている。
ボールを持った選手がセンターライン付近から放ったシュートが――
入った。
大逆転です。
会場は爆発したような騒ぎになります。
隣にいる生徒とハイタッチ。
知らない相手とも抱き合う。
そしてブラスバンドが鳴り響きます。
"We're the Roncalli Jets..."
以前のブログでも紹介した、あのRoncalli Jetsの歌です。
あの瞬間の興奮は、50年経った今でも忘れることができません。
州大会へ、みんなでミルウォーキーへ
そしてついに、Roncalliは州大会へ進みました。
私も当然、観戦ツアーに参加しました。
確か1泊2日。
ミルウォーキーまで、みんなで応援に出かけました。
その時、同室だったのがGlennです。
彼は後にフットボールチームでクォーターバックを務めた選手でした。
Glennは、とにかく陽気。
決して「品行方正な優等生」というタイプではありません(笑)。
羽目を外す。
飲み過ぎる。
時には喧嘩もする。
私は内心、
「こいつ、大人になったらどうなるんだろう。」
と思っていました。
ところが後になって聞いたところでは、彼は警察官になったそうです。
これには驚きました。
人生、本当に分からないものです。
負け試合で、椅子を蹴飛ばした
残念ながら、州大会では初戦で敗退しました。
しかも私は、その試合で少々やらかしました。
レフェリーの判定に腹を立て、ハーフタイムだったか試合中だったか、興奮のあまりベンチの椅子を蹴飛ばしてしまったのです。
当然、叱られました。
今なら、
「お前は選手でもないだろう。」
と、自分自身に言ってやりたいところです(笑)。
でも、それだけRoncalliという学校を「自分の学校」だと思えるようになっていたのでしょう。
アメリカへ来たばかりの頃には、英語もほとんど分からず、居場所すらなかった私が、数か月後には地元の高校の試合で判定に腹を立てるほど熱くなっている。
今振り返ると、それも一つの変化だったと思います。
学校中が憧れたスター選手
そのチームの中心選手の一人に、Jimというシニアの選手がいました。
頭がいい。
背も高い。
運動神経も抜群。
そして、とにかくバスケットボールが上手い。
今ならスリーポイントになるような距離から、軽々とシュートを決めます。
一試合で何本も入れてしまう。
私から見れば、まさにスターでした。
しかも、そんなスター選手なのに、私ともカフェテリアでよく話をしてくれました。
くだらない話にも付き合ってくれます。
私は、
「きっと有名大学へ行って、大学でもバスケットを続けるんだろうな。」
と思っていました。
ところが彼が選んだ進路は、空軍士官学校でした。
パイロットを目指して進学し、そこでバスケットボールも続けたと、後に聞きました。
残念ながら、その後視力の問題でパイロットへの道は断念したそうですが、日本にも何年間か駐在していたと聞いています。
高校時代の友人たちが、その後それぞれまったく違う人生を歩んでいった。
50年経った今だからこそ、そのことにも不思議な感慨があります。
そして、私にも「恋」の季節がやってきた
Jimには、学校でもひときわ目を引く、とても綺麗なガールフレンドがいました。
当時16歳だった私にとって、同世代のアメリカの女の子たちは、とても大人びて見えました。
日本の高校とは服装も違う。
話し方も違う。
男女の距離感も違う。
アメリカへ来たばかりの頃の私は、ただただ圧倒されるばかりでした。
しかし、そんな私にも、ついに気になる女の子が現れます。
16歳。
アメリカの小さな町。
言葉も文化も違う世界で始まった、私の淡い恋。
今思い返せば、これもまた、この一年間を語るうえでは外すことのできない思い出です。
次回は、少し照れくさいですが、そんな16歳の私の恋の話を書いてみようと思います。
(第13話へ続く)
執筆者
伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社(事業内容:①科学論文サポートサービス ②NAIway翻訳サービス ③品質QAS動画まるごとローカライズ ④動画でOJT介護) 代表取締役
1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。
1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。

