このブログ、このシリーズについて
このブログは、私自身が実際に経験した出来事を振り返る回想録です。物語は、約50年前、16歳だった私がアメリカへ留学した日から始まります。一部は当時の記憶をもとに記載していますが、できる限り事実に基づいて綴っています。この留学をはじめとする数々の経験は、その後の私の人生を大きく変えました。
なぜエヌ・エイ・アイ株式会社を創業したのか。なぜ論文サポート、多言語翻訳、動画でOJT介護といった事業へ取り組むようになったのか。そして、なぜ社是を「とことんキッチリおつきあい」と定めたのか。このシリーズでは、一人の創業経営者として、その原点や想いを、できるだけありのままにお伝えしたいと思っています。また、このシリーズにはもう一つ目的があります。生成AIの急速な進化によって、大きな転換期を迎えている2026年という時代に、私たちはこれからお客様へどのような価値を提供していくべきなのか。自分自身の歩みを振り返りながら、その答えを探し、次の世代へ経験をつないでいきたい。そんな思いで、このブログを書き始めました。(エヌ・エイ・アイ株式会社 代表取締役 伊藤秀司)
第5話 初めてのアメリカの高校生活
いよいよ新学期が始まった
9月になり、いよいよ新学期が始まりました。
私が通うことになったのは、カトリック系私立高校のRoncalli High Schoolです。
最初に驚いたのは、学校のシステムでした。
朝、学校へ着くと、まず自分のロッカーへ荷物を入れます。
ホームルームは朝だけ。
その後は、自分が選択した授業ごとに教室を移動します。
数学なら数学の教室。
アメリカ史ならアメリカ史の教室。
理科なら理科室。
先生が教室を移動する日本とはまったく逆でした。
「これがアメリカの高校なんだ。」
そんな小さなことにも驚きの連続でした。

数学は簡単。でもアメリカ史は大苦戦
当時の高校留学は、現在とは違い、アメリカで取得した単位を日本の高校へ移すことができませんでした。
つまり、帰国すると一学年下へ編入することが決まっていました。
そのため、校長先生と相談し、私は週20コマほど授業を受ければよいことになりました。
そんな中、一番楽だったのは数学です。
今振り返ると、日本の中学2年生程度の内容だったでしょうか。
二次関数くらいが一番難しい問題でした。
試験では、みんなが50分かけて解いている横で、私は15分ほどで解き終え、ほとんど毎回満点でした。
一方で、本当に苦労したのがアメリカ史です。
10センチほどもある分厚い教科書を読み、毎週レポートを提出しなければなりません。
インディアン(ネイティブ・アメリカン)の部族の歴史。
フランス系移民の開拓。
植民地時代の出来事。
日本史や世界史は好きだった私ですが、アメリカ史だけは最後まで苦戦しました。
カフェテリアが私の教室だった
授業は週20コマ。
では、それ以外の時間は何をしていたのか。
ほとんどカフェテリアにいました(笑)。
カフェテリアでは、自然と学年ごとに座る場所が決まっていました。
1年生(Freshman)
2年生(Sophomore)
3年生(Junior)
4年生(Senior)
そんな雰囲気でした。
私はアメフト部の仲間がいたおかげで、JuniorやSeniorのテーブルを行ったり来たりしていました。
今思えば、私は無意識のうちに努力していたのだと思います。
まだ本当に親しい友達はいません。
だから、
「ここで一人になったら終わりだ。」
そんな気持ちがどこかにありました。
誰とでも話し、誰とでも笑う。
高校生ながら、「男芸者」のように振る舞っていた自分がいました(笑)。

日本人は珍しい存在だった
ありがたいことに、カフェテリアでは意外と人気者でした。
座っていると、次から次へと誰かが話しかけてきます。
「日本ってどんな国なんだ?」
「侍ってまだいるの?」
そんな質問も珍しくありませんでした。
今では日本食はアメリカ中にありますが、1975年当時はまったく違います。
カップヌードルもありません。
キッコーマンの醤油もほとんど見かけません。
「Soy Sauce」といえば、中国系の醤油しかなく、日本の醤油とはまったく味が違いました。
今のアメリカしか知らない人には、想像もできない時代だったと思います。
ランチもカルチャーショック
カフェテリアのランチも楽しみでした。
ハンバーガー。
ピザ。
ターキーサンドイッチ。
チキンカツレツ。
チョップスイ。
日本の給食とは比べものにならないほど豪華に感じました。
そして、もう一つ。
アメリカの女子高校生は、当時ほとんどが長い髪でミニスカート。
16歳だった私には、本当にみんな輝いて見えました。
今思えば普通だったのかもしれません。
でも、当時の日本の高校生には、とても新鮮で、いつも少しドキドキしていました(笑)。

辞書を片手に過ごした毎日
カフェテリアの外には広い芝生があり、昼休みにはタッチフットボールをして遊ぶこともありました。
でも、遊んでばかりいたわけではありません。
辞書とノートは、いつも持ち歩いていました。
分からない単語があれば、すぐ友達へ聞く。
その繰り返しです。
そんな毎日を続けるうちに、2〜3か月もすると、アメリカ人同士の会話にも少しずつ入れるようになってきました。
しかし、一つだけ最後まで理解できないものがありました。
みんなが笑い転げる「Polish Joke」。
当時アメリカでよく語られていたジョークですが、私には何が面白いのか、さっぱり分かりません。
分からないのに、一緒になって笑っていました。
今思い出しても、あれは少しつらかったですね(笑)。

(第6話へ続く)
執筆者
伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社(事業内容:①科学論文サポートサービス ②NAIway翻訳サービス ③品質QAS動画まるごとローカライズ ④動画でOJT介護) 代表取締役
1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。
1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。
