第10話 英語は机ではなく、人との会話で覚えた

楽しかったアメリカンフットボールのシーズンも、少しずつ終わりに近づいてきました。

振り返ってみると、この数か月間、いわゆる「勉強」はほとんどしていません。

もちろん学校の授業には出ていました。

しかし、自分の中では、教科書を覚えることよりも大切な目標がありました。

それは、とにかく友達を作ること。

一緒に笑い、一緒に遊び、一緒に失敗しながら、生きた英語を身につけることでした。

今でも私は、「語学は人とのコミュニケーションの中でこそ身につく」と思っています。

16歳だった私は、そのことを毎日の生活の中で体感していました。

とはいえ、何もしなかったわけではありません。

暇さえあれば辞書を開き、新しい単語や熟語を覚えました。

覚えたら、その日のうちに必ず使ってみる。

通じれば嬉しい。

通じなければ、「ああ、こういう場面では使わないのか」と覚え直す。

そんな毎日の繰り返しでした。

今思えば、それは教室では学べない、実践そのものだったように思います。

当時の私は、日本では高校2年生の一学期までしか英語を学んでいませんでした。

しかも野球部一筋。

決して勉強熱心な高校生ではありません。

特に苦手だったのが「仮定法」です。

日本で学んだ時も、

「こんなの何に使うんだろう?」

と思っていました。

ところが、アメリカへ来ると事情がまったく違いました。

友達との会話では、

「もし○○だったら」

「もしあの時○○していたら」

という話題が本当によく出てくるのです。

仮定法が使えないと、会話が途中で止まってしまいます。

そこで、日本から持ってきた文法書を何度も読み返しました。

そしてBirr家のリビングは、私の英語教室になりました。

例えば、

「もしあの日、雨が降っていたら、野球の練習は中止になって、もっと勉強できたから、希望していた翠嵐高校へ行けたかもしれない。」

あるいは、

「もし宇宙人が現れて願いを一つだけ叶えてくれるなら、中学生の頃に好きだった女の子とデートしたい。」

そんな、今思えば笑ってしまうような例文ばかり作っては、兄弟姉妹を相手に話す練習をしていました。

彼らも面白がって付き合ってくれました。

この経験は、後になって思わぬところで役に立ちました。

私は帰国後、慶應義塾大学経済学部へ進学することになります。

慶應経済の英語は、単なる逐語訳ではありません。

文章の意味を理解し、自分の言葉で自然な英語へ組み立て直す力が求められます。

その試験では、日本で受験勉強だけをしてきた人よりも、留学経験が大きな武器になったように感じています。

今振り返れば、父が高校生の私を留学へ送り出してくれたことに、本当に感謝しています。

フットボールが終わると、学校はバスケットボールシーズンになります。

私は、

「フットボールができたんだから、バスケットも何とかなるだろう。」

と、何とも根拠のない自信を持っていました。

ところが現実は甘くありません。

バスケットボールは、経験者ばかりの世界です。

練習についていくことすらできませんでした。

結局、一週間ほどでコーチに呼ばれ、

「今回は難しいね。」

ということで、あっさり戦力外。

人生初めての"クビ"でした(笑)。

ところが、それでもバスケットとの縁は終わりませんでした。

冬になると、学校のチャリティーイベントとして「24時間バスケットボール」が開催されました。

募金活動の一環として、交代しながら24時間試合を続けるイベントです。

20人ほどで30分ごとに交代しながらプレーします。

これが、本当にきつい。

100マイル(約160km)のチャリティーサイクリングよりも疲れました。

その日、私が決めたシュートは……

わずか2本。

ほぼ半日近く走り回って、それだけです(笑)。

つくづく、自分にはバスケットの才能がなかったのだと思います。

バスケットを辞めた頃から、私の生活は少しずつ変わり始めました。

週末になると、誰かの家で必ずと言っていいほどパーティーが開かれます。

そして、毎週のように

「Shuji、一緒に来いよ。」

と迎えに来てくれる友達がいました。

ウィスコンシン州といえば、ビールの名産地。

地元の"Miller"ビールは樽ごと用意され、みんなで飲みながら夜遅くまで語り合います。

今なら「高校生なのに」と驚かれるかもしれません。

しかし、当時のアメリカ中西部では、それも一つの文化でした。

もちろん、決して褒められる生活ではありません(笑)。

実は、一番苦労したのは英語そのものではありませんでした。

ネイティブ同士が笑いながら話している内容についていくことです。

話すスピードが速い。

学校や地元の話題ばかりで背景が分からない。

文化も違う。

ついていけなくなることが何度もありました。

そんな時、私は話題を変えました。

恋愛の話。

冗談。

そして少し下品な"Nasty Topics"。

これは世界共通です。

みんな笑いながら話に乗ってきます。

私は、笑わせることで会話の輪に入り込む術を、少しずつ覚えていきました。

思えば、この頃に身についた「場を盛り上げる性格」は、その後の人生にも大きな影響を与えたのかもしれません。

日本へ帰国してから、友人や知人によく言われました。

「秀司、性格が変わったよな。」

高校一年生までの私は、どちらかと言えば人前へ出るのが得意なタイプではありませんでした。

しかし、このアメリカでの一年間が、私を少しだけ大胆にしてくれたのだと思います。

語学だけではありません。

人との接し方や、異文化の中へ飛び込む勇気も、この一年が教えてくれました。

次回は、そんなパーティー三昧だった1975年の秋から冬にかけて、今だから話せる思い出を振り返ってみたいと思います。

(第11話へ続く)

執筆者

伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社(事業内容:①科学論文サポートサービスNAIway翻訳サービス品質QAS動画まるごとローカライズ動画でOJT介護) 代表取締役

1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。

1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。