このブログ、このシリーズについて
このブログは、私自身が実際に経験した出来事を振り返る回想録です。物語は、約50年前、16歳だった私がアメリカへ留学した日から始まります。一部は当時の記憶をもとに記載していますが、できる限り事実に基づいて綴っています。この留学をはじめとする数々の経験は、その後の私の人生を大きく変えました。
なぜエヌ・エイ・アイ株式会社を創業したのか。なぜ論文サポート、多言語翻訳、動画でOJT介護といった事業へ取り組むようになったのか。そして、なぜ社是を「とことんキッチリおつきあい」と定めたのか。このシリーズでは、一人の創業経営者として、その原点や想いを、できるだけありのままにお伝えしたいと思っています。また、このシリーズにはもう一つ目的があります。生成AIの急速な進化によって、大きな転換期を迎えている2026年という時代に、私たちはこれからお客様へどのような価値を提供していくべきなのか。自分自身の歩みを振り返りながら、その答えを探し、次の世代へ経験をつないでいきたい。そんな思いで、このブログを書き始めました。(エヌ・エイ・アイ株式会社 代表取締役 伊藤秀司)
第9話 英語は教室ではなく、友達が教えてくれた
アメリカに留学してしばらくすると、授業にも少しずつ慣れてきました。
もちろん、「慣れた」と言っても、授業の内容が理解できるようになったわけではありません。
むしろ分からないことの方が圧倒的に多かったのです。
必須科目は、日本の高校とそれほど変わりませんでした。
アメリカ史、英語、数学、理科、体育などです。
数学だけは、日本で学んでいた内容の方が進んでいたこともあり、とても簡単でした。
一番苦労したのは、やはり英語です。
授業ではシェークスピアを読まされ、その内容について意見を求められます。
当時の私には、何を言っているのかさっぱり分かりません。
辞書を引いて単語を調べても、文章全体の意味が理解できない。
今振り返っても、あの授業だけは本当に苦労しました。
体育は想像以上にハード
体育も、日本とはまったく違いました。
映画でアメリカ軍の訓練シーンを見ることがありますが、まさにそんな雰囲気です。
高さ3メートル近い壁をロープ一本で登ったり、障害物を越えたり、とにかく体力勝負。
運動神経が決して良い方ではなかった私には、かなり厳しい授業でした。
「これ、本当に体育なの?」
と思ったことを今でも覚えています。
一番好きだったコーラスの授業
そんな中で楽しかったのが選択科目です。
図工。
タイプライター。
そしてコーラス。
歌っていれば単位がもらえるという、とてもありがたい授業でした(笑)。
担当の先生は20代後半くらいの女性の先生でした。
ある日、その先生が突然こう言いました。
「今度の全校集会で、一緒に日本の歌を歌いましょう。」
私は耳を疑いました。
聞けば、その先生は以前、日本へ留学していたことがあり、日本の歌を知っているというのです。
そしてギターを手に歌い始めた曲は……
ビリー・バンバンの**『白いギター』**でした。
フォークソング好きだった私はもちろん知っていました。
しかし、
「いやいや、それは無理です。」
何度も断りました。
ところが先生は笑いながら、
「もう校長先生の許可も取っています。」
完全に外堀が埋まっていました。
人生初めてのステージ
そこから毎日のように練習しました。
先生が持っていた歌詞カードを見ながら、忘れていた歌詞を思い出し、一緒に何度も歌いました。
そして迎えた全校集会。
約300人の生徒が体育館に集まっています。
私は先生の横に立ち、日本語で『白いギター』を歌いました。
まるで自分がビリー・バンバンの一員になったような気分でした。
もっとも、私は昔から音痴です。
みんな心の中では、
「日本人、歌はあまり上手じゃないな。」
と思っていたかもしれません(笑)。
それでも、あの時の温かい拍手は今でも忘れられません。
もう一つの試練
舞台に立ったのは、それだけではありません。
ある日突然、
「州のスピーチコンテストへ出なさい。」
と言われたのです。
今度は観客がおよそ千人。
まだ英語も満足に話せない留学生が、日本の高校生活について五分間スピーチをすることになりました。
五分という時間が、あれほど長く感じたことはありません。
途中で頭が真っ白になりそうになりながらも、何とか最後まで話し切りました。
すると会場から大きな拍手が起こりました。
スピーチが上手だったからではありません。
一生懸命話そうとしている16歳の日本人留学生を、温かく応援してくださったのだと思います。
アメリカという国の懐の深さを感じた瞬間でした。

舞台に立ったのは、それだけではありません。
ある日突然、
「州のスピーチコンテストへ出なさい。」
と言われたのです。
今度は観客がおよそ千人。
まだ英語も満足に話せない留学生が、日本の高校生活について五分間スピーチをすることになりました。
五分という時間が、あれほど長く感じたことはありません。
途中で頭が真っ白になりそうになりながらも、何とか最後まで話し切りました。
すると会場から大きな拍手が起こりました。
スピーチが上手だったからではありません。
一生懸命話そうとしている16歳の日本人留学生を、温かく応援してくださったのだと思います。
アメリカという国の懐の深さを感じた瞬間でした。
英語は夢の中まで
今思うと、私はとても幸運でした。
アメリカへ着いた日から約半年間、一度も日本語を話す機会がありませんでした。
電話もありません。
インターネットもありません。
周りはすべて英語です。
すると、不思議なことが起きました。
留学してわずか二か月ほど経った頃には、夢の中まで英語になっていたのです。
夢の中で友達と英語で話し、笑い、時には口論までしていました。
人間は、置かれた環境によって本当に変わるものなのだと実感しました。
最初に覚えたのは……
もっとも、私の友達はフットボール部の仲間ばかり。
勉強熱心な優等生ではありません。
そのため、最初に覚えた英語は、教科書の英語ではなく、いわゆる**"nasty words"**でした。
日本語で言えば、あまり品の良くない言葉です。
面白がって使っていると、
敬虔なクリスチャンだったBirr家のお母さんに、
「Shuji!」
と、何度も叱られました。
今思えば、本当に申し訳ないことをしたと思っています。
Joeとの思い出
そういえば、このブログでは同室だったJoeの話をあまりしていませんでした。
彼とは本当によく遊びました。
家から歩いて15分ほどのところに大きな川が流れていて、よく釣りへ出掛けました。
そこで釣れたのが、Northern Pikeという魚です。
鋭い歯が並ぶ姿は、初めて見る日本人には少し怖く感じる魚でした。
辞書で調べると「食べられる」と書いてあります。
そこでJoeがさばいてムニエルのような料理にしてくれました。
……正直に言います。
あまり美味しくありませんでした(笑)。
結局、日本から届いたばかりのカップヌードルで口直しをしたことを覚えています。
カップヌードル外交
そのカップヌードルも、日本から50個ほど送ってもらったと思います。
ところが、Birr家のみんなが、
「これ、おいしい!」
と言って、次々と食べてしまいます。
気が付けば、私が食べたのは半分以下。
残りは兄弟姉妹のお腹の中へ消えていました(笑)。
それでも、不思議と腹は立ちませんでした。
みんなで一緒に「おいしい、おいしい」と食べたカップヌードルは、日本では味わえない特別な思い出になっています。
今でもカップヌードルを見るたびに、Birr家の食卓を思い出します。
(第10話へ続く)
執筆者
伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社(事業内容:①科学論文サポートサービス ②NAIway翻訳サービス ③品質QAS動画まるごとローカライズ ④動画でOJT介護) 代表取締役
1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。
1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。
