ファクトチェックをしない翻訳が招くリスクとは?─「訳せている」と「合っている」は別物です

はじめに:翻訳の現場で、いま静かに起きていること

DeepLやChatGPT、Google翻訳をはじめとするAI翻訳の精度は、ここ数年で目を見張るほど向上しました。社内に翻訳担当者を置かない中小企業でも、海外向けのウェブサイト、製品カタログ、プレスリリース、社内マニュアルといった多言語コンテンツを、ほんの数十秒で形にできる時代です。

ところが、現場で翻訳に携わっていると、この「手軽さ」の裏側で見過ごされがちな工程があることに気付きます。それが ファクトチェック(事実確認) です。

翻訳という仕事は、しばしば「ある言語の単語を、別の言語の単語に置き換える作業」と理解されています。しかし実務の観点から言えば、翻訳の半分は語学であり、もう半分は リサーチと検証 です。原文に書かれていることがそもそも事実として正しいのか。数字の桁は合っているのか。引用している法令はまだ有効なのか。─ここを飛ばして公開された訳文は、たとえ文法的に完璧でも、企業にとって思わぬ地雷になり得ます。

以下、現場で実際に起こりがちなリスクを、領域ごとに整理していきます。


1. 数字の取り違えは、経営判断そのものを狂わせる

IR資料、決算短信、事業計画書、調査レポート─ビジネス文書には、売上高、市場規模、シェア、成長率、為替レートといった 数値情報 がぎっしり詰まっています。

問題は、数字というのは「見た目で間違いに気付きにくい」ということです。文章の誤訳は読めば違和感が出ますが、1,500,000 が 15,000,000 になっていても、訳文の流れだけ追っていると素通りしてしまいます。

たとえば、こんなケースを想像してみてください。

  • 日本語原文の「売上高15億円」を、英訳で 15 billion yen と書いてしまった(正しくは15 billion yen ではなく 1.5 billion yen)。
  • 前年比+12%」を +1.2% と打ち間違える。
  • ヨーロッパ向け資料で、小数点とカンマの使い方を日本式のまま残してしまい、1,250.50を 1.250,50(ドイツ式)に直し忘れる/逆に直しすぎる。

こうしたミスは「単なるタイプミス」では済みません。投資家、取引先、規制当局に対して 事実と異なる数字を発信した という事実が残り、最悪の場合は訂正開示や信用毀損に発展します。

NAIwayでは、お客様から金額や数値データのローカライズをお預かりした場合、訳出後のチェックに加えて、納品前にもう一度社内で数値検証 を行います。確認するのは桁数だけではありません。

  • 通貨記号と金額の位置($1,000か1,000 USD か)
  • 桁区切り(カンマ/ピリオド/スペース/アポストロフィ)
  • 単位系(メートル法/ヤード・ポンド法)
  • パーセンテージとパーセンテージポイントの区別
  • 会計期間の表記(FY2025は4月始まりか1月始まりか)

「現地の読者が見たときに、誤読の余地がない数値表現になっているか」─ここまで踏み込んで確認します。


2. 契約書・法務文書では、一語の差が法的リスクに直結する

法務翻訳が他の分野と決定的に違うのは、訳文そのものが法的効力を持ち得る という点です。

たとえば、英文契約でよく出てくる shall / may / must / willは、日本語ではどれも「〜する」と訳せてしまいますが、契約上の意味はまったく異なります。shall は義務、may は裁量、will は単なる将来─ここを取り違えれば、後日「やる義務があったのか、なかったのか」で揉めます。

さらに厄介なのが、同じ法律用語でも国・地域によって解釈が変わる ケースです。

  • Confidential Information」の範囲は、日本のNDAと米国のNDAでは慣行が異なる
  • Force Majeure(不可抗力)」に何が含まれるかは、英米法と大陸法で考え方が違う
  • Indemnification(補償)」の射程は、州法レベルで変わることもある

加えて、法令や規制は改正されます。GDPR、各国の個人情報保護法、輸出管理規制、ESG関連の開示ルール─いずれも数年単位でアップデートされており、過去の翻訳テンプレートをそのまま流用すると、すでに失効した条文や旧称の規制を引用してしまう危険があります。

法務翻訳に必要なのは、辞書を引く力ではなく、「この条文は現時点でも有効か」を一次ソースで確認する習慣 です。


3. 技術文書・マニュアルでは、誤訳が事故を引き起こす

製品マニュアル、取扱説明書、安全データシート(SDS)、保守手順書。これらの文書には、ユーザーの安全と直結する情報が書かれています。

技術翻訳で特に怖いのが、数値と単位の誤訳 です。

  • 「動作温度-20° C を、華氏に変換する際に符号を取り違えれば、寒冷地での誤使用につながります。
  • 「100V専用」のまま欧州(230V)向け資料に流用すれば、製品が焼損する可能性があります。

また、注意喚起の言葉も要注意です。英語の安全表記には ANSI Z535 に基づく DANGER / WARNING / CAUTION / NOTICEの階層があり、それぞれ「死亡または重傷の切迫した危険」「死亡または重傷の可能性」「軽傷の可能性」「物的損害」と、対応するリスクレベルが明確に決まっています。これを日本語の「注意」「警告」と一対一で機械的に置き換えると、危険度の伝達が崩れます。

技術翻訳の現場では、「自然な日本語/英語であること」よりも、「数値・単位・警告レベルが原文と一致していること」の方が優先順位が上 です。ここを取り違えると、PL(製造物責任)リスクに直結します。


4. マーケティング調査では、設問の翻訳次第で「データそのもの」が歪む

海外市場向けのアンケートやユーザーインタビュー、定量調査の翻訳には、もう一段階別のリスクがあります。それは、訳した設問が現地で意味をなさない というケースです。

例として、こんな質問を想像してみてください。

「ご自宅にウォシュレットはありますか? はい/いいえ」

日本国内なら違和感のない設問ですが、欧米やアジアの一部地域では温水洗浄便座の普及率が低く、そもそも「ウォシュレット」という概念を知らない回答者が多数派です。直訳して送り出せば、「いいえ」 ばかりが並ぶデータが集まり、本来知りたかったインサイト(衛生意識、トイレ周りの可処分所得など)には到底届きません。

同様の落とし穴は無数にあります。

  • 年収レンジ:日本の感覚で400万円~600万円を区切ると、物価水準の異なる国では中央値がずれる
  • 学歴選択肢:「高卒/専門/短大/大卒/大学院」は、教育制度の違う国では選びようがない
  • 家族構成:「世帯主」概念が成立しない国/文化がある
  • 5段階リッカート尺度:文化によって極端な回答を避ける傾向(中央化傾向)が強く出る

翻訳者がこうした文化的・社会的背景まで踏まえて設問を ローカライズ しなければ、得られるデータの信頼性は根本から崩れます。「言葉を訳す」のではなく「質問の意図を、現地で同じように機能する形に置き換える」という発想が必要です。


5. AI翻訳だけでは、なぜ防げないのか

ここまで読んで「AI翻訳の精度が上がっているなら、こうした問題も減るのでは?」と感じた方もいるかもしれません。

確かに、流暢さという意味でのAI翻訳の品質は劇的に向上しました。ただ、AI翻訳には構造的な弱点がいくつか残っています。

① ファクトチェックをしていない AIは「原文に対応する自然な訳文」を生成するだけで、「その内容が事実として正しいか」を検証する仕組みは持っていません。原文側に誤りがあれば、そのまま流麗な誤情報として出力されます。

② 固有名詞・専門用語に弱い 人名、企業名、製品名、地名は、学習データに登場頻度の低いものほど誤訳・音訳ミスが起きやすい領域です。Apple Inc.を「リンゴ社」とは訳しませんが、知名度の低い現地企業名や法令名は平気で意訳されることがあります。

③ 古い情報を引いてくる 学習時点のスナップショットに引きずられるため、「すでに改正された旧法令名」「合併で消滅した旧社名」などを自然な口調で出力します。流暢なだけに、人間側も気付きにくい。

④ 文脈の取り違えに気付けない 同音異義語や、業界特有の意味合い(例:医療の "discharge"=退院/放電/排出)を、文書全体の文脈から判断する能力にはまだムラがあります。

そして最大の問題は、訳文が「いかにも自然」だからこそ、誤りに気付きにくい ということです。たどたどしい訳文なら人間が再点検しますが、流暢な訳文はそのまま通ってしまう。これがAI翻訳特有のリスクです。

だからこそ、最終工程に 人間の目によるレビューと、一次ソースによるファクトチェック を組み込むことが、いまや「省ける工程」ではなく「必須の工程」になっています。


信頼される多言語発信のために必要なもの

翻訳の本来の目的は、外国語に置き換えること自体ではありません。原文の意図と事実を、読み手の言語・文化・常識のなかで、同じ意味として再現すること です。

ファクトチェックを怠った翻訳は、

  • 企業の信頼低下(投資家・取引先・規制当局からの目線)
  • 法的リスク(契約紛争、コンプライアンス違反)
  • 安全事故(製品事故、PL責任)
  • 調査結果の歪み(誤った意思決定)

といった、ビジネスの根幹を揺るがす問題に直結します。

高品質な翻訳に必要なのは、語学力だけではありません。

  • 一次ソースを当たる リサーチ力
  • 業界特有の慣行を理解する ドメイン知識
  • 現地の生活感覚を踏まえる 文化リテラシー
  • そして、原文の誤りにも気付ける 批判的読解力

これらが揃って初めて、「訳せている」が「合っている」になります。


言語の置き換え以上の翻訳をお求めなら、NAIwayへ

NAIwayでは、訳出工程に加えて、納品前の社内チェックで数値・事実関係まで踏み込んで検証 しています。場合によっては、現地在住のネイティブ翻訳者・チェッカーに直接コンタクトを取り、

  • 「この数値レンジは、現地の物価・市場感覚に照らして妥当か?」
  • 「ここで引用している法令/規制は、現時点でも有効か?」
  • 「このマーケティングメッセージは、現地で本来の意図どおりに受け取られるか?」

といった疑問を、翻訳作業と並行して一つひとつ潰していきます。

「とりあえず言語を置き換えてほしい」ではなく、「現地で誤解なく、安全に、信頼を持って読まれる訳文がほしい」─そうお考えの方は、ぜひ一度ご相談ください。

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