50年前、16歳だった私が見たアメリカ ~建国200周年を現地で体験した高校生の物語~

このシリーズについて

このブログは、私自身が実際に経験した出来事を振り返る回想録です。約50年前の出来事のため、一部は当時の記憶をもとに記載していますが、できる限り事実に基づいて綴っています。

これからしばらく、私の人生を振り返るブログを書いてみようと思います。

きっかけは、先日迎えたアメリカ建国250周年でした。

私は現在67歳です。

今から約50年前、16歳から17歳までの約1年間、正確には1975年7月から1976年7月まで、アメリカ・ウィスコンシン州、ミシガン湖のほとりにある小さな町「Two Rivers(ツーリバーズ)」へ留学していました。

なぜ今、この話を書こうと思ったのか。

それは、テレビでアメリカ建国250周年のお祝いの様子を見たからです。

実は私は、1976年7月4日に行われたアメリカ建国200周年(Bicentennial〈バイセンテニアル〉)のお祝いを、現地で体験した数少ない日本人の一人でもあります。

ミシガン湖畔のレイクショア公園には大勢の人々が集まり、街全体がお祭りのような熱気に包まれていました。

夜空いっぱいに打ち上がる花火を見上げながら、アメリカの200歳の誕生日を現地の人たちと一緒に祝ったあの日。

あれから、もう50年。

テレビに映る250周年の映像を見ながら、まるで昨日のことのように当時の風景がよみがえってきました。

このブログでは、あの留学生活を中心に、私の人生のさまざまな出来事を、少しずつ振り返っていこうと思います。


私がアメリカへ留学することになった最初のきっかけは、その5年前に兄が同じアメリカのホストファミリーへ留学していたことでした。

父は戦時中、山梨高等工業学校(現在の山梨大学工学部)に在学中、陸軍に徴兵されました。

陸軍航空隊の整備将校として終戦を迎えましたが、当時は、いつ二人乗りの軍用機に乗り、特攻隊として出撃することになってもおかしくない、そんな極限の時代を生き抜いた人でした。

そのような経験をした父は、とても質素で真面目な人でした。

兄は長男でしたから、父にも特別な思いがあったのだと思います。

しかし父は、次男である私にも兄と同じ経験をさせてやりたいと考えていたようです。

高校2年生の1学期、父から突然こう言われました。

「お前もアメリカへ留学してみないか。」

この一言が、私の人生を大きく変える最初の一歩になりました。


しかし、その頃の私は留学どころではありませんでした。

運動神経は決して良いほうではありませんでしたが、高校では野球部に所属し、ようやく自分たちの代になろうとしているところ。

「今度こそレギュラーを取りたい。」

その一心で、毎日のようにグラウンドで汗を流していました。

当時は今では考えられない時代です。

練習中は「水を飲むな」と先輩から言われるのが当たり前。

炎天下でも歯を食いしばって練習を続けることが美徳とされていました。

そんな中で、野球を辞めてまでアメリカへ行くことなど、私には到底考えられませんでした。

迷いながら、父から留学の話があったことを野球部の同級生に打ち明けました。

すると友人は、迷う私にこう言ってくれました。

「俺たちには絶対にできない経験なんだよ。」

「お前とは一生友達だから、安心して行ってこい。」

その言葉に、私は背中を押されました。

あの一言がなければ、私はアメリカへ行かなかったかもしれません。

そして、その後の人生も、まったく違うものになっていたと思います。


いよいよ出発の日がやってきました。

羽田空港まで見送りに来てくれたのは、野球部の同期や後輩、クラスの同級生、そして担任の先生。

今思い返しても、30人を超える人たちが集まってくれていたと思います。

飛行機がゆっくりと動き始め、小さな窓から外を見ると、みんなが最後まで旗を振り続けてくれていました。

その姿を見た瞬間、涙が止まりませんでした。

「本当にアメリカへ行くんだ。」

16歳だった私は、不安と期待が入り混じる中、日本を旅立ちました。

もちろん、人生初めての海外です。

飛行機は日本航空。

当時は1ドル300円前後の時代。海外旅行そのものが、まだ特別な時代でした。

隣の席に座っていたビジネスマンが、「頑張れよ」と声をかけてくださったことも、今でも覚えています。

目的地はシカゴ・オヘア空港。

しかし当時は東京からシカゴへの直行便はなく、サンフランシスコで入国し、国内線へ乗り換える必要がありました。

もちろん、今とは時代がまったく違います。

スマートフォンはもちろん、インターネットもありません。

分からないことがあっても、その場で調べる方法などない時代です。

英語が話せない16歳の高校生が、一人でアメリカへ渡り、広大な空港で国内線へ乗り継ぐ。

今振り返れば、それはまさに大冒険でした。

ところが私は、乗り継ぎ方法がまったく分からず、国際線のチェックインカウンターが国内線のそれと思い込み、長蛇の列に並んでしまいました。

ようやく順番が来たところで、日本語が話せる係員の方が対応してくださり、衝撃の一言を告げられます。

「乗り継ぎ便は、あと40分で出発します。」

頭の中は真っ白でした。

荷物はどうなるのか。

国内線ターミナルはどこなのか。

何も分かりません。

すると空港係員の方が状況を理解し、私を車に乗せて国内線ターミナルまで送ってくださいました。

さらに国内線のチェックインカウンダ―では長蛇の列の前まで案内してくださり、おかげで出発3分前、本当にぎりぎりで飛行機へ飛び乗ることができました。

海外へ出れば、誰も助けてくれない。

そう思っていました。

しかし実際には、多くの人の親切に助けられて、私は最初の一歩を踏み出すことができたのです。


ようやく到着したシカゴ・オヘア空港では、ホストファミリーの一人、チャーリーが迎えに来てくれていました。

チャーリーは5年前に留学していた兄の同級生で、当時まだ21歳でしたが、すでに結婚し、小さなお子さんもいました。

今になって考えると、Two Riversからシカゴまでは車で片道4時間以上あります。

それだけの時間をかけて迎えに来てくれたことに、今でも感謝しています。

そして、その長い帰り道で私の緊張をほぐしてくれたのが、チャーリーの1歳半くらいの息子さんでした。

英語が話せない私は、大人との会話には緊張しっぱなしでした。

でも、小さな男の子とは違いました。

言葉が通じなくても、赤ちゃん言葉や身ぶり手ぶりだけで笑い合える。

万国共通のコミュニケーションが、そこにはありました。

今思えば、あの子がいてくれたおかげで、初めてのアメリカで張りつめていた心が、少しだけ軽くなったように思います。

さらに、車窓から見える景色にも圧倒されました。

当時の日本では、首都高速道路がようやく整備され始めた頃でした。

ところがアメリカでは、飛行場の滑走路ではないかと思うほど広い三車線、四車線のハイウェイが、どこまでも真っすぐ続いていました。

「アメリカって、こんなに大きな国なんだ。」

16歳だった私は、そのスケールの違いに驚きました。

高校生ながらに、国力の違いというものを初めて肌で感じた瞬間だったように思います。


あの日の私は、もちろん将来会社を作ることなど考えてもいませんでした。

しかし今振り返ると、あの日アメリカへ向かった一歩が、その後の私の人生を大きく変え、30年後にエヌ・エイ・アイ株式会社を創業することにつながる、すべての始まりだったように思います。

あの日の飛行機に乗らなければ、今の私はいなかったでしょう。

この留学生活で経験した数え切れない出来事を、これから少しずつ書いていこうと思います。

次回は、13人兄弟のホストファミリーとの初対面、そしてカルチャーショックの連続だったアメリカでの最初の一日についてお話ししたいと思います。

(第2話へ続く)

執筆者

伊藤秀司 エヌ・エイ・アイ株式会社 代表取締役

1995年創業。30年以上にわたり翻訳・英文校閲・論文投稿支援・グローバルコンテンツローカライズ事業に携わる。

1975年から約1年間、アメリカ・ウィスコンシン州Two Riversへ留学。本シリーズでは、その経験と、その後の人生について綴っています。